ふとおもえば・・・。
俺の言うとおりにしないと、自民党は終わりだ!=舛添要一 1
中央公論 11月27日(木)
もはや、低負担ではもたない!
長い間この国は、「低負担」でありながら奇跡的に「高福祉」を実現した国だった。国民皆保険制度を実現し、ほんの少しの自己負担で誰でも病院に通うことができ、世界一の長寿を誇っていたことを考えれば明らかだ。
ところが今、日本は本格的な高齢社会を迎える途上で財源不足に陥り、低負担、低福祉の国になりつつある。東京都内の妊婦さんの受け入れ拒否問題をはじめとする医療崩壊、見直しも迫られているが、高齢者の利用する療養病床の削減を打ち出さざるをえない状況にあることなどはその表れである。かつてのような高福祉を願うなら、日本は高負担を選択せざるをえない。その方向転換を図るべき時期にきている。だからこそ、私は、九月末に長寿医療制度の見直しを提言したのだ。
後述するが、この制度の見直しは、膨れ上がる財源の問題に触れざるをえない。選挙前に負担増について触れることが自殺行為だと覚悟した上で、私は、あえてこの見直し案を提案していることを先に申し上げ、以下、改革案について説明したい。
福田、町村に相談するわけがない
この「舛添私案」について、メディアや野党はもとより、与党内からも批判の声が聞こえる。中身について論じる前に、「福田内閣の閣僚として、長寿医療制度推進の立場だったではないか」「根回しもなく独断専行するのはけしからん」という、私の「政治姿勢」に対する攻撃に反論しておきたい。
第一に、今回の見直し案は、今の制度をめぐる厳しい現実を身をもって知る私だからこそ、提出できたものだ。
幕末、攘夷を叫んでいた薩長は、一夜にして開国に主張を転換させる。薩英戦争や、長州が四ヵ国連合艦隊を相手にした下関戦争を通じて列強の持つ大砲の威力を知り、攘夷路線の維持は困難だと悟ったからにほかならぬ。
私は、担当大臣として長寿医療制度を定着させようと努力した。自らが設計に携わったわけではなく、内容も完璧とは言えなかったが、さりとて喧伝されるような”悪の制度”とは、今も思っていない。それどころか、この改革の流れを逆行させるようなことがあれば日本は危ないと思えばこそ、太平洋上の敵に向かって応戦し続けた。
「敵」には、例えばみのもんた氏のような、メディアで「活躍」する人物もいた。彼が毎朝のように「老人いじめですね」と浴びせる砲弾の威力は、凄まじい。対するわが方の大砲はといえば、まるで威力がない。国会の厚生労働族の方々は、私に噛み付く前に、みのもんた氏の番組に出て彼と対決したらどうなのか。
ともあれ、現場の「砲手」は私以外にはあまりいなかった。敵の砲撃により世論が一定方向に燃え上がっていくのを目の当たりにし、私は現行のまま制度を定着させるのは無理だと判断したのだ。
第二に、ならば、いつどんな形で見直しを打ち出すか。政権交代時がその最高のタイミングであることは、論を待つまい。だから「次期総理」が確実視された麻生さんには、就任前にご相談し賛同を得た。
ちなみに、時の福田総理や町村官房長官に相談などするはずがない。すればその時点で、彼らも「責任者」としてこの一件に引きずり込まれることになり、無用な混乱も生む。「一人の大臣が、勝手にとんでもないことを言い出した」という状況を作ることが重要だったのである。
もう一度幕末の話をすれば、犬猿の仲だったはずの薩摩と長州が手を組んだこと自体、「なんじゃそれ」という事件であった。しかし、「なんじゃそれ」で世の中は動く。
長寿医療制度の見直しを打ち出すまで、現行制度を廃止して元に戻すという、財源を無視した民主党などが掲げる方針を支持する人が多数を占めていた。ところが、麻生内閣発足時に『読売新聞』が行った世論調査では、制度見直しに自公両党が合意したことに対して七割近い人が賛意を示している。「元に戻せ」は、およそ二割である。あれこれ批判する人たちに、こうした民意の変化をどう理解、分析しているのか、うかがってみたいものだ。
フレンチが嫌ならイタリアンに
さきほども述べたように、私は現行制度が悪いものだとは思っていない。しかし、「嫌なものは嫌だ」という感情に支配されてしまった以上、維持するのは難しい。料理にたとえるのならば、「最高級の材料を何時間も煮込んで仕上げたフランス料理です」「味も栄養価も保証します」と説明し勧めても、「フランス料理は口に合わない」と門前払いされたようなもので、いくら論を尽くしても理解される可能性は低い。「悪い制度」ではないが、たしかにソッポを向かれる理由もあった。
一つは、七十五歳で切り離したこと。たとえば六十五歳だったら「定年だから」、二十二歳ならば「もう学生じゃない」と説明がつく。今回は、「何の意味もなく」七十五歳になるやみんなと別れて乗せられるバスが、”うば捨山行き”に見えたのだ。七十五歳という年齢には、生活習慣病を患う危険性が高まるといったそれなりの意味合いがあるが、「八十になるが元気だ」という人を前に、説得力には乏しい。
もう一つ大きかったのは、保険料の徴収を一部の例外を除き年金からの天引きに限定したことだ。介護保険料の徴収は年金の天引きでもすんなりいったが、介護保険はゼロからのスタートだったから、「新しい制度ができるのなら」と、抵抗感があまりなかった。一方、長寿医療制度はもともとあった保険をつくり変えたものだったために「なぜ今度は天引きなのだ」という反発を招き、「制度改悪」のイメージを増幅させる結果になった。
どうしても受け入れがたいものであるならば、その障害を取り除くしかない。フランス料理が苦手と分かったのだから、イタリアンなり中華なりに作り変えて提供すべきなのである。
詳述は避けるが、「七十五歳以上の専用バス」という切り離しをやめ、国民健康保険は「県単位の大型バス」に集約し、その中で高齢者に対する優遇措置を残す−−というのが私の提案だ。たとえば現役世代の運賃が一五〇円なら六十五〜七十四歳は一〇〇円、七十五歳以上は五〇円というような形で、シルバーシートやゴールドシートを設ける。一律天引きというやり方も改め、運賃を自分で料金箱に入れたい人にはそうしてもらう。
医療制度改革に取り組みながら痛感したのは、時代は変わって、高齢者も「すべてをお上に任せる」という意識ではなくなってきていること。おばあちゃんが、五〇〇円の保険料を納めるためにバス代を払い、炎天下日傘をさして来るのは大変でしょうと思うのだが、そうしたいと思う人にはその権利も認めるべきだろう。
実は、年金からの天引きである「特別徴収」だけではなく、十月からは多くの方が保険料の自動引き落としも可能になっている。周知徹底が遅れ、まだ利用率は五%に過ぎないのだが、こういった点も積極的にアピールしていきたいと考えている。
俺の言うとおりにしないと、自民党は終わりだ!=舛添要一 2
中央公論 11月27日(木)
避けては通れない財源問題
こうした見直しを実行するうえで解決すべき課題は三つある。
第一に、制度一体化の方法、財政調整をどうするか。さきほど述べた三世代間のお金のやり取りのほか、国保のバスの隣りを走っている、より「裕福な」健保組合との財政的な相互調整も具体化する必要がある。
第二に、市町村から都道府県に保険料を統一する際の、激変緩和措置を講じなければならない。
そして第三に、都道府県が運営主体となるための条件整備である。現行の長寿医療制度では、知事が県の財政難を恐れた結果、広域連合という妥協の産物の運営主体が生まれてしまった。新制度は、都道府県にきちんとやってもらわなくてはならない。そのためには財政支援も含め、必要な手を打つ必要がある。
これらについて一年をめどに詰めていきたいと考えているが、最大の問題は、やはり財源である。医療費の増加が避けられない以上、どこかで財源を創出しなくては、長寿医療制度の見直しもへったくれもない。
結論を言えば、財源の多くを消費税増税で賄うのがベストだと私は思う。 消費税に逆に累進性があるのは事実だ。しかし一方で、広く浅く、かつ公平な税でもある。よく、低所得のフリーターから税金を取って、ベンツを乗り回しているような老人の給付に回すのはおかしいという言い方がされる。しかし、貧しいフリーターは高級車を買わない。お金持ちが一〇〇〇万円のベンツを買えば、仮に消費税率が一〇%なら一〇〇万円を納めることになる。そこに負担の公平が生まれるのである。食料品などの必需品に対する税率を低くする複数税率の採用など、逆累進性を緩和する手立てもある。
長寿医療制度における医療給付の公費負担は五割、残りが現役世代と高齢者の保険料で賄われる仕組みだが、私は新たな制度を導入の後、徐々に公費負担を拡充すべきだと考える。保険料負担分の割合が減れば、それだけ世代間の調整額も小さくできる。
公費の増加分には、述べたように消費税を充てる。フリーターのなけなしの手取りから保険料を徴収するより、お金持ちが支払う消費税を再配分するほうが、よほど社会的公平が実現するのではないだろうか。
自分のことしか考えない
世界に冠たる公的医療保険制度を将来にわたって維持していくためには、何よりも国民の理解、協力が必要になる。しかし、私は先行きを楽観してはいない。国民に正確な判断材料を提供すべきマスコミ、なかんずく映像メディアが、その役割とはかけ離れた報道を繰り返していることも、そう考えざるをえない大きな理由である。加えて、情報を「受け取るほう」にも問題がありはしないか。
論壇誌や新聞であれば、読んだ人間は多少なりとも「考える」。だが、テレビはそれを許さない。「衝撃映像」にかぶさる印象的な一言が脳裏に刻み付けられ、次の瞬間、別の話題に切り替わる。みのもんた氏は「ほっとけない!」と叫びはするが、代替案はない。そして視聴者も、多くはそこで思考停止になってしまう。
国の社会保障のあり方を議論する時に、特に大事になるのはイマジネーションだ。高齢者の介護に苦労する人たちの集会で、「介護目的で消費税を一%上げれば、金銭的な負担なしに充実した介護が提供できる。二%上げればスウェーデン並みも実現できます」というと、税率アップに反対する人はいない。では、「当事者」以外の人に同じことを語ったらどうだろう?「私は関係ないから負担増はごめんだ」「親の面倒をみるのは当然だ」という反応が、おそらく多数を占める。「いつかは自分の親や自分自身が徘徊を始めるかもしれない」「その結果、どんな生活を強いられるのか」という想像力はそこには希薄だ。もっと言えば、「そうなった時には何とかしてもらいたい」と考えている人が多いのかもしれない。
自分のことしか考えられないところに、「相互扶助」は成り立たない。この当たり前の事実を、もう一度自分の頭で思い起こしてもらいたいのだ。
必要なグランドデザイン
OECD諸国で最下位に近いような低負担で、高水準の医療そして長寿命を実現したのが日本だ。しかし、繰り返しになるが、高齢社会の到来で「奇跡」の継続は困難になっている。またしても起こってしまった妊婦さんの「たらい回し事故」は、”安かろう・良かろう”だったわが国の医療が、”安かろう・悪かろう”になりつつある象徴的な出来事といえる。
こうした現状に鑑み、麻生総理は”中負担・中福祉”の国づくりを提言されている。個人的には、思い切って”高負担・高福祉”に座標軸を据えるぐらいの高い目標が必要なのではないかと思っているが、いずれにしても新しい時代に見合った社会保障を築き、維持していくためには、負担増は避けられない。
今必要なのは、そのことも含めた将来像を指し示す、本当の意味でのグランドデザインの作成である。国民のイマジネーションがウンヌンと述べたが、もっと大きな問題は「国民が想像力を欠如させているという想像力」が働かず、結果として「スモールデザイン」しか打ち出せないでいる為政者の側にある。長寿医療制度が軌道に乗らなかったのも、根本原因はそれだと私は思っている。
高齢者医療制度に話を戻そう。取るべき道は、あくまでも開国であり維新である。自らが掲げる長寿医療制度撤廃の世論が後退したことに焦りを感じたのであろう、民主党は躍起になって与党や私に対する攻撃を仕掛けている。だが、彼らの主張する「公武合体」すなわち、すべての医療制度を統合して一元化するなどというのは、暴論に等しいものだ。二〇〇〇年七月、「金大中フィーバー」に乗ってサラリーマンも自営業者もすべて一元化を図った韓国が、その後どんな混乱状態に陥ったのか。彼らは何の教訓も得ていないらしいが、そんな事態を日本で招来するわけにはいかない。私が開国に転じたのは、混乱に乗じてこの公武合体論が台頭し始めたことも理由の一つだ。
幕末期、最も的確に国の将来を見据え、グランドデザインを描いたのは、西郷隆盛であろう。口幅ったいが、私は今、西郷のつもりで事に臨んでいる。先が読めない人たちにはスタンドプレーに映るかもしれないこの間の行動も発言も、すべてはその気持ちの発露であると理解していただきたい。強がりではなく、反発は想定内のものである。むしろ世論の変化も含めて、確実な手応えを感じている。
薩長が最後まで攘夷にこだわり、開国への方針転換を潔しとしなかったら、日本は植民地になっていたかもしれない。はっきり言う。今、私の提言を受け入れなかったら、自民党政権は終わる。
維新志士振っていますが、従来の搾取お役人と同じ思考です。正に「取れる処から取れ」で終始しています。「取れなくなったら、殺してでも盗って来い」とも云う論調に近い部分も多々有ります。然し乍ら、平たく譬えを多用した論調故、読み手には「成る程、そうなんだ〜」と錯覚してしまいます。
詭弁を弄するのが嘗てのお仕事であったが故、今のお仕事にも最大限発揮しています。大半に賛同を得る論調もお仕事の成果故です。まあ、皮肉ではありませんが、嗚呼云った論調に惑わされる国民性にも若干の非が無いとは云えません。想像力の欠如は確かに由々しき問題です。
何にでも他人任せが大好きな民族特性故でしょう。後期高齢者医療制度の絡繰りを一切周知しなかった面も多々有りますが、当時のあの方を盲信仕過ぎた大半の国民にも責任が無いとは云えないでしょう。勿論、大騒ぎしなかったマスメディアの責任論も否定出来ません。
政に関しては、世界有数稀に見る民主主義後進国です。これは否定出来ません。いや、今まで超高度社会主義先進国だったから、その反動が物凄い事になっているだけです。思えば、当時の執拗なるアメ公の横槍がなかったならば、未だに日本は一又昔の日本で在り続けていられた筈です。
アメ公中心主義世界に合わせる事が、逆に内政がガタガタにされたのです。安かろう悪かろう主義に合わせて良い事等有るのでしょうか。実質社会主義で高かろう良かろうの時代が、民衆の不満が割合少なかったではありませんか。失われた物の代償は高く付くのが当然と考えるべきです。
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